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第4話 電子の振る舞い

 電子の振る舞いについて考えたい。電子は電荷を持つとされている。電荷は-と+があるようである。電荷の持つエネルギーは重力を遥かに凌駕するが、その影響範囲は狭いようである。  第2話の1次設定に一定の法則を加えて、次の性質のものを作りたい。 ① 1つの座標の近傍に多くのスペース力=1を集める。つまり、粒子化である。 ② ①の粒子は他のノードからできる限り独立している。つまり、影響範囲を狭くする。  同一座標に異符号のノードが存在すれば、対消滅を起こしてしまうから近接するノード集団を作ることが必要と考えられる。ここで次のことを考察していきたい。 ① 座標系の設定 ② ノードの移動法則 ③ スペース力と座標系上の距離との関係  用いる手法は、フラクタルかセルオートマトンの応用にしたいと思っているが、双方には座標系というやっかいな代物が存在する。フラクタルを用いるためには虚数空間を考慮する必要があり、セルオートマトンは1座標が1枡であるからノードが同一座標になる可能性が高く、頭を悩ませている。つまり、この問題を打開していかないと先に進めないということである。しかしながら、この文章を書くことで問題点が明らかになってきたことは喜ばしいかぎりである。それまでは悶々と閃きだけが先走りをしていたのだ。  わたしは、この世界が単純なものであると考えている。この世界が多様に見えるのは、存在する要素の多さとその組み合わせの膨大さによるものだと考えている。そこに心の作用、つまり意図というものが加わり複雑性を加速させているのではないだろうか。数年前に長野県に出稼ぎに行ったときのことを思い出す。日本アルプスの山並みを眺めながら「何故、地球はこんなにも複雑なのだろう」と思いに耽ったことがある。その答えが今手の届きそうなところに現れて歓喜せむばかりである。とはいえ、明日からの日常を思うと心は沈む。生きている限り、喜んだり怒ったりしなければならないのだ。  考えることが好きである。考え続けることが本望である。その途中で死にたいと願うのである。つまり、結論は出て欲しくないのだ。完結した思考は残骸でしかない。結果を求めているのではなく、結果を出そうと考えている過程が好きなのである。周囲の人はこれを努力と呼ぶらしいが、どうやらそれとは違うようである。努力とは結果を求めるものであって、結果を求めないものは努力ではないと思うからである。幼いころから欲しいものを手に入れたときの虚しさを数多く味わってきたと思う。欲しいものは手に入れてはいけないと思うようになり、今では欲しいものは数少なくなったようである。生きている限り食事は望むが、そのためにはお金が必要である。お金を得ようとすると社会の一員とならねばならぬ。社会の一員となると様々な干渉がついてまわる。「がんばれ」と言われても「なにを」と思うし、「ルールを守れ」と言われても「お前はどうなんだ」と言いたくなる。ここいら辺が精神疾患とされる素因となっているのかもしれないが、社会の構成員となりたいとは思わないのだ。これも口にしたことはほとんどないが、“寂しい”という感情がよくわからない。そもそも他の人と自分の感情が同一のものであるのか確かめる術はないのだから“寂しい”という感情も確かめることはできない。何故、電子の振る舞いが“寂しい”の説明になったのかよくわからないが、また別なことを思い出してしまった。  クオリアについて暫く考えたことがある。日本語に訳すと質感となるらしいが、ますますわからなくなる。ようするに、わたしの“赤”という感覚と他の人の“赤”という感覚が同一のものであるか確かめる術は存在しないということらしい。だからどうしたということになるが、わたしの文章も同様であるのだろう。興味のあるものは個々で異なるのだから仕方のないことである。

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