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第6話 独立系

 前の話の追記になるが、観測とは反応の検出である。何かと何かを干渉させてその反応の違いを検出することが観測であると思っている。従って、反応しないものは観測できないことになる。  ということで今回は独立系とはなにかを定義したい。複数の完全独立系は、互いに観測できない系のこととする。互いに観測できないのだから無と同じこととなる。互いに反応できないのだからぶつかる心配もない。従ってこの世界での独立系は次の場合だけである。 ① 条件を付加したとき(例えば、反応の起こらない条件など) ② 実用上問題の起こらないほど排除してよい反応が存在する時 ③ 観測技術が劣悪ないしは実在は確認されているが、観測技術が存在しない場合 ① の時、一目平坦であるようなN!(階乗)のような要素の集合体でも一定の条件を付加すれば、ツリー(階層)構造を作れることがある。あるというよりは、あるつもり、あるはずと言い直したほうが正確である。実は以前に取り組んだ課題がこれであった。結果、解法を導き出したのはよいが、未だ箱の中である。解法そのものだけでは役に立たないこともわかっているのだが、今回の取り組みの過程でいつか絡み合ってくるものと信じている。 ② の時、実用技術としては間違いなく問題は起こらないと思うが、理論としてはどうなのであろうか。確かにランダウの漸近記法などにみられるように大量の計算量を扱う時には、便利な記法であり考え方であると思う。しかしながら、本文章の中では扱わないこととしたい。いかに微量な数値の反応でも繋がりとして考えたい。先走ってしまったが、反応は観測者と被観測者の繋がりであると考えている。 ③ の時、顕著であるのは心と物質である。心は明らかに存在すると思われ、物質に反応するが、その反応の観測技術は存在しない。故に心は、物質と独立した系であると考えざるを得ない。また、科学の進歩により観測技術や精度が向上し、今まで無関係だと思われていたものが、発見されて科学の発展に寄与することもある。  ところで、わたしは確率が嫌いである。これは個人の好みであるから仕方がない。統計も嫌いである。微分も積分も嫌いである。図形とか論理は好きなようである。そのせいかもしれないが、機械論的考え方を好むようである。わたしの思う機械論とは、物質の全ての振る舞いは宇宙誕生と共に決定されているとするものである。心だけが物質の振る舞いを変化させることができると思っている。根拠など何もないが、信じるものがなければ生きていくことは難しい。誰かを説得したり、納得させたりしようとは思わないが、自分だけが信じる世界があってもいいではないかと思っている。唯一納得させなければならないのは自分自身である。ただそのためだけに論理的であれと思っている。  この世界の社会は思いと理屈で構成されていると考えていて、どちらが先に来るかというと思いである。こうしたいという思いがあって、そこに理屈が付いてくる。いわゆる理屈とは思いを通すための手段である。何故、社会に法律や慣習などが生まれたかと考えると、思いだけが寄り集まった集団は社会として成立しないからではないかと考える。個人を尊重するためとか、自然を敬うためとか様々な議論があるであろうが、宇宙や自然は、それを人に求めたりしない。人が自由に作ったものが法律や慣習である。従って、力の強い者が法律や慣習を作るのは当然のことなのである。故に理屈が通っているからといって、法律や慣習が平等であるとは限らない。個々の思いを尊重すると、社会が成り立たない。逆もそうである。はたしてどちらを優先すべきなのであろうか。わたしの現在の結論は、個が個に配慮し、折り合いをつける社会が望ましいと考えている。しかし、そういう社会は永遠にやってこないとも思っている。

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