freecontentのブログ

日々の出来事から思い、動物、科学にわたって様々な自由な内容です。

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第5話 観測

 前話の追記として電子の条件は、同一のものあるいはほぼ同一のものが複数作られることが必要であるとわかった。 つまり、 ① 1つの座標の近傍に多くのスペース力=1を集める。つまり、粒子化である。 ② ①の粒子は他のノードからできる限り独立している。つまり、影響範囲を狭くする。 ③ ①と②でほぼ同一の構成粒子(電子)が創られる。 となる。  漠然としていて、上手く説明できないが、自分自身でも漠然としているのだから仕方が無い。閃きとはそういうもので次の段階は漠然から突然転じていくものである。故に明瞭なものは、明日出来上がるのか、いつまで経っても出来上がらないのか保証できるものではない。以前に得たある数学の解法は25年の歳月を必要とした。 ほぼ同一の構成としたのは、全ての電子が同一であると証明されたという事実があるのか知らないからである。同一でなくとも現在の科学理論に齟齬をきたすものでなければ、問題が起こらないと理解している。実際に2つの電子を比べて違いを検出する技術が存在するのであろうか。観測にはその時代によって精度があり、違うということを証明することは容易であるが、同一であるということを証明することは観測にはできないはずである。  わたしは幼いころより都合のいい児童や生徒ではなかったようである。学校の授業で学んでいても疑問が起こると「何故?」「どうして?」と先生を困らせたようである。それでもわたしは科学を昨今まで信じていた。裏切られたわけではないが、科学が全ての真実を告げているわけではないことを知るようになってしまった。そのときの衝撃は今では和らいだが、幼きころよりの教育とは恐ろしいものである。科学が絶対であると教えられたわけではないようだが、ほぼそれに近い教育を受けたように思う。何故もあのように断定的な教育を行うものかと思ってしまう。絶対ではない真実を断定的に教育しようとするがために、わたしの「何故?」という攻撃を受けて、答えに詰まってしまう先生がいたのだと今では理解できる。そうであるならば、わたしは「何故?」という攻撃をしなかったであろう。答えを知らない者を困らせるために「何故?」と尋ねたわけではないからである。純粋に知りたいという欲求からきた問いは、わたしを変人化していったのだと思う。そして、社会の一員としての素養を身につけられなかったのだと思う。社会の一員として生きていくことは辛いと思うが、一員となれないものはそれ以上に辛いと思う。何かの行動を起こすと、問題児とされ異端視され協調性がないとレッテルを貼られる。幸か不幸かそういう図式があるということを知ったのは最近である。それまでは、協調性がないと言われても変人だと言われてもさほど困ることもなかったのであった。  どうしてもわたしの文章はあらぬ方向に向かうようである。理路整然とした文章でもなく、ただ思いを書き連ねるだけのもので、これを散文と呼ぶのであろうか。散文の定義を知らないものだからなんともいえないが、読者の方にとってわたしの文章を読むことが辛い作業でないことを祈るばかりである。  ところで、話題とした「観測」である。実はこのことを述べたかった。現在の観測は見たいものを見ているだけである。従って、見たいもの以外は観測できない。つまり、知らないものは観測できないのだ。どういうことかというと宇宙全体のこと知っていないと宇宙全体を観測することはできないということである。全体がどの程度のものか知らないのだからどの程度観測によって宇宙のことを知り得たのかもわからない。観測そのものを否定しているわけではなく、観測とはその程度のものだといいたいだけである。どうすればいいかと尋ねられても答えは持っていない。わたしはこれまで科学を信じ過ぎていたのだと思う。科学の基本姿勢である「懐疑的であれ」を実践できないでいたのだと思う。これからは自分の思いや考えに忠実に従って、科学を学び直したいと思う。突飛な発想を持ち出したとしても誰も困る人はいないのだからそれでいいと思う。

第4話 電子の振る舞い

 電子の振る舞いについて考えたい。電子は電荷を持つとされている。電荷は-と+があるようである。電荷の持つエネルギーは重力を遥かに凌駕するが、その影響範囲は狭いようである。  第2話の1次設定に一定の法則を加えて、次の性質のものを作りたい。 ① 1つの座標の近傍に多くのスペース力=1を集める。つまり、粒子化である。 ② ①の粒子は他のノードからできる限り独立している。つまり、影響範囲を狭くする。  同一座標に異符号のノードが存在すれば、対消滅を起こしてしまうから近接するノード集団を作ることが必要と考えられる。ここで次のことを考察していきたい。 ① 座標系の設定 ② ノードの移動法則 ③ スペース力と座標系上の距離との関係  用いる手法は、フラクタルかセルオートマトンの応用にしたいと思っているが、双方には座標系というやっかいな代物が存在する。フラクタルを用いるためには虚数空間を考慮する必要があり、セルオートマトンは1座標が1枡であるからノードが同一座標になる可能性が高く、頭を悩ませている。つまり、この問題を打開していかないと先に進めないということである。しかしながら、この文章を書くことで問題点が明らかになってきたことは喜ばしいかぎりである。それまでは悶々と閃きだけが先走りをしていたのだ。  わたしは、この世界が単純なものであると考えている。この世界が多様に見えるのは、存在する要素の多さとその組み合わせの膨大さによるものだと考えている。そこに心の作用、つまり意図というものが加わり複雑性を加速させているのではないだろうか。数年前に長野県に出稼ぎに行ったときのことを思い出す。日本アルプスの山並みを眺めながら「何故、地球はこんなにも複雑なのだろう」と思いに耽ったことがある。その答えが今手の届きそうなところに現れて歓喜せむばかりである。とはいえ、明日からの日常を思うと心は沈む。生きている限り、喜んだり怒ったりしなければならないのだ。  考えることが好きである。考え続けることが本望である。その途中で死にたいと願うのである。つまり、結論は出て欲しくないのだ。完結した思考は残骸でしかない。結果を求めているのではなく、結果を出そうと考えている過程が好きなのである。周囲の人はこれを努力と呼ぶらしいが、どうやらそれとは違うようである。努力とは結果を求めるものであって、結果を求めないものは努力ではないと思うからである。幼いころから欲しいものを手に入れたときの虚しさを数多く味わってきたと思う。欲しいものは手に入れてはいけないと思うようになり、今では欲しいものは数少なくなったようである。生きている限り食事は望むが、そのためにはお金が必要である。お金を得ようとすると社会の一員とならねばならぬ。社会の一員となると様々な干渉がついてまわる。「がんばれ」と言われても「なにを」と思うし、「ルールを守れ」と言われても「お前はどうなんだ」と言いたくなる。ここいら辺が精神疾患とされる素因となっているのかもしれないが、社会の構成員となりたいとは思わないのだ。これも口にしたことはほとんどないが、“寂しい”という感情がよくわからない。そもそも他の人と自分の感情が同一のものであるのか確かめる術はないのだから“寂しい”という感情も確かめることはできない。何故、電子の振る舞いが“寂しい”の説明になったのかよくわからないが、また別なことを思い出してしまった。  クオリアについて暫く考えたことがある。日本語に訳すと質感となるらしいが、ますますわからなくなる。ようするに、わたしの“赤”という感覚と他の人の“赤”という感覚が同一のものであるか確かめる術は存在しないということらしい。だからどうしたということになるが、わたしの文章も同様であるのだろう。興味のあるものは個々で異なるのだから仕方のないことである。

第3話 世界観

 この話では、電子の振る舞いについて記述する予定だったが、その前にわたしの世界観を述べておく必要があると思ってしまった。  この世界は物理現象として説明できるものとできないものの2つで構成されていると考える。本文章は物理現象を説明しようとする試みであるが、そうでないものに精神、つまり心の存在を信じている。この世界は、確率論を用いなくとも要素そのものではなく、要素の組み合わせに主体をおくことで様々なことが説明できるであろうと推測している。心は説明できる手がかりすらなく、説明する必要も感じていない。生命現象というあたかも物理現象のような生命活動は説明できる日が遠からず訪れるかもしれないが、それは心の営みを説明するものではないであろう。  物理学とは、時間の経過と共に物質が変化する様を論じているものだと考える。われわれは、物質が変化した結果を見て、いいとか悪いとか感じているだけである。例えば、お金を失ったとしてもそれは物理的にお金が自分のところから失われたという物理現象であるから、本来いいも悪いもないはずなのである。つまり、われわれは物理現象に意味づけをして生きているのであり、個によってあるいは社会集団によって善悪の違いが存在することは当然のことと考える。とはいえ、善悪を感じるのは心であるのだから当然のことは当然ではすまされなくなる。その所以で生きていれば、喜びもするし、怒りもする。  このように考えるわけであるから、わたしはもちろん聖人君子ではなく、むしろ反対側とみなされているようだ。数年前に精神障害者のレッテルを貼られて生活しているが、自分自身はどこに障害があるのかよくわかっていない。医者に問い質しても障害の程度も原因もわからないままである。理屈だけは人並みらしく、まわりの人々はわたしのことを障害者であると理屈で納得させることはできないようである。その所以で自己申告として障害者としての立場を有しているのかもしれない。生活に困るのはお金ももちろんであるが、全身に激痛と痙攣がはしることである。現在は処方された薬が当たってこの症状は治まっているから快適である。それまでは日々、激痛と痙攣に悩まされていた。その原因がわからないのであるから根源治療もできず、病名もつけられないらしい。病名をつけられないと障害者年金を受給できないからお金にも困ることになる。そもそも精神障害者となったのは、アルコールの常用者であったためであるが、飲酒欲求は全くなくここ数年お酒を口にしたことはない。ネットで調べてみるとアルコール依存症は2次障害で、根本的な問題は他にあるようだが、医者も原因を特定できずに現在に至っている。  話がずいぶんと逸れてしまったが、こうやって文章を書くこともストレス発散になり今後の命題考察に役に立つかもしれないから文章内容の許容範囲としたい。こうやって文章を書いていると、一人で瞑想的に悶々とものごとを考えるより整理がつくようだ。と同時にいくつかのことが思い出されてくる。今、頭を過ぎったのは「創発」という言葉であった。創発とは、部分が持っていない性質を集合体になると新しく持つ現象をいうらしいが、部分の組み合わせを考えると説明できるかもしれない。  今思っていることは、この文章を雑文にしたいということである。本来エッセイとはそのようなものであるからあながちルール違反と責められることもあるまい。もちろん主題は宇宙の創造についてであるが、そのためには現在の科学への疑問や社会問題も考える必要がある。後に1つの話として述べたいが、この世界に完全な独立系は存在しない。存在しないというより観測できないのだ。つまり見えないということである。従って、この世界の万物や現象はどこかで影響を及ぼしあっていることになる。この雑文が読者の方のためになるか否かは読者の方次第である。面白いストーリーがあるわけではなく、学問的に意味があるのかもわからないこの雑文は、自分自身にとっては非常に楽しい空間である。  世界観を書くつもりが、いくぶん脱線してしまった。最後に世界観を纏めると、この世界は時間の経過と共に物質が変化し、それを見て、人々が喜んだり怒ったりする空間である。ただそれだけのことなのである。