freecontentのブログ

日々の出来事から思い、動物、科学にわたって様々な自由な内容です。

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第11話 子猫

 さて、転載も終わりこのブログでの初記事となる。帰宅したころまでは、+と-の世界で考えたことを書こうとしていたが、それには多大な説明文が必要となるため挫折してしまった。多大であっても有益であれば書くべきなのだろうが、さほど有益とも思われない記事なので挫折したのは運命であったのかもしれない。
 ところで、この記事から第何話というナンバリングをしたいと思う。偏に書いた記事を忘れることを少しでも防ぐためであるが、何故、ナンバリングかというと数字が好きだからである。何故、数字が好きかと問われても答えようが無いが、項目に番号を振ると忘れにくいようなのである。絶対忘れないということは無く、必ず忘れるのだが、1種の癖だと思ってもらえば幸いである。


 ようやく、タイトルについて書けるが、この記事は子猫についてである。前記事までとの関連は全く無くて、少々我が家の猫の系図を説明するところから始めたい。そもそも、7年ほど前に出会ったメスの野良猫が我が家始祖である。4年くらい前までは子猫の死産などが多く、子供はオスが1匹だけであった。このオス猫の名前はイプというのだが、とにかく懐かなかった。最近ではイプとようやく折り合いをつけてエサを食べに部屋に来るのはいいが、住居は外にしろということになっている。忘れていたが、始祖の母猫の名はナツである。ナツのことも書きたいのだが、今回は子猫についてである。


 予想はしていたのだが、今年子猫が15匹生まれた。3匹は生後まもなく息をひきとったが、現在部屋には12匹の子猫がいる。母親は4匹で、ナツも2匹出産した。残りの母親3匹はナツ子供か孫である。3年ほど前から嘘のように子猫の出生率が上がり、昨年は12匹の猫たちと暮らしていた。すると今年は12匹+12匹で24匹いるはずだが、別居を始めた猫たちもおり、部屋の中には20匹を切る猫たちがいて、足し算通りとはいかないようだ。


 いよいよ本題である、目の見えない子猫が1匹いる。当初、両目が開かず生存が危ぶまれた子猫だったが、2ヶ月近く生存している。目の状態は毎日のように好転したり悪化したりするのだが、現在は真っ赤な目をしている。文章力が弱いので上手く表現できないが、綺麗な赤ではなく、病んだような赤と言ったらよいのだろうか。この子猫の母親は絶えずその赤く濁った目を舐めて癒しているようだ。これがたまらず愛おしい。見ているだけで愛情を感じてしまう。不思議なことに可哀想とか思わない。生きたいと願っているのか、運命と諦めているのかわからないが、わたし自身も障害者であるから妙な共感を持ったのかもしれない。何を言いたかったのかというとその子猫と母親がわたしの癒しとなっているということである。

第10話 象

 第8話で座標値のない座標系を想定したが、完全グラフを前提としているから距離が定まると、2次元座標系などでは相対的ではあるけれども座標値が必然と定まってしまう。なぜなら、全てのノードを繋げると全てに三角形ができてしまうからである。すると、座標値と距離の間に矛盾が発生する。矛盾とは呼べないかもしれないが、座標値と距離の間に食い違いが出るのは必然である。その由で頭を悩ませていたのだが、解決できる方法が1つ見つかった。距離を曲げればよいのである。一定の法則に従うか否かは別問題として座標値に見合うような距離を曲がっているとすればよい。いい加減であるが、今のところ問題は発生しない。問題があると感じるのは日常の世界と比べるからであり、そこに思い悩む必要はなかったのだ。  この世界には様々な形や現象が存在する。いずれもが、存在であったり、存在の振る舞いであったりするが、相性のよい形同士は結合という振る舞いをするのだと考える。この世界は形や象で構成されているのではないだろうか。 ずいぶんと文章が散漫になり的が絞れなくなってきているが、これはわたしの流儀でもある。わからないことをいつまで考えていても解決しない。散漫的に考えると思わぬ気づきが訪れて閃くことがある。その閃きは数十年に1回という気の長いものであるが、閃くことを求めているのではなく、閃かせようと考えているときが有意義なのだ。拠って、読者の方は閃きを望んではいけないと思う。もっとも望んでいる人もいないであろうが、こうやって文章を発信しているからには物好きな方もいるかもしれない。  ピラミッドパワーというものが脚光を浴びたことがかつてあった。わたしは少なからず信じているが、日常の現象に現れることは稀であると思う。WIKIで物理とかのページを読んでいると、相互作用という文言がいたるところに現れる。わたしは、数年前まで相互作用とはどんなものかと調べていた。きっと、すばらしい知識が得られると信じていたからであるが、結局何かと何かが相互に作用しているはずだということがわかるだけで知りたいことは得られなかった。その時は怒りに似た感情が浮かんだものだ。科学が万能であると信じていたせいであるが、信じていたものに裏切られたときは、自分を呪うしかないと思っている。そして、今では何を信じるかは個々の自由であり、誰にも否定できないものだと思っているため、今では自分の意見は言うが、「決断はあなたがするのですよ」ということにしている。つまり、わたしを信じるなということである。人に恨まれたくないものである。  わたし自身は不思議ではないのだが、何故に段落の書き初めと最後がこうもちがう文章になるのか疑問に思う方もいるかもしれない。わたしに理由を尋ねられも困るのだが、文章構成というものを全く気に留めていないからかもしれない。美しい文章を書くことが目的でもなく、理路整然としたものを書きたいとも思わない。ただ2つのことだけが目的である。1つは、文章を書くことでストレスを発散させることと、1つは閃きに向かって頭の中を空っぽにすることである。頭に中を整理しようとすると嫌なことを思い出してストレスが溜まってしまう。忘れることが大事なのである。若いころはこれができなかった。何かに執着したり、恨んだり、挙句の果てにはいくつかの依存症にもなった。わたしが今貧しい生活をしているのはこの依存症のせいである。多額の借金により多くのものを失って残っているものは少ない。お金などは全く残っておらず、欲しいとも思わない。ただ僅かの生活費を得て、人から貰ったパソコンでこうやって文章を書いたりしているのが至福のときである。といいたいが、気分の優れないときがほとんどである。すっきりした気分になるのは1ヶ月に1回もないだろう。何が原因なのかわからないのだから解決のしようもない。借金取りはいなくなったのだから、それだけでも幸せなはずなのにやはり人は何かに思い患うものなのだろう。

第9話 反力

 たまにはWIKIなど紐解くこともあるが、大体が記憶によることが多い。つまり、独善的となり、いい加減な知識の披露であったりするのだが、こうやって文章を書くこと自体が好きなのだから修正はきかないようだ。かといって、調べることが嫌いかというとそうでもないらしい。調べ始めると納得するまで調べつくす。すると、疑問だけが残るのだから不思議なものである。科学の根拠は経験則と実験や観測によるものなので、絶対的な根拠は存在しない。それはそれでいいのだが、多くの場合科学によらないのだが、教師や年上、上位職のものに「それが絶対である」かのように教えられてきたような気がする。これは勘違いによるものかもしれないが、年を重ねてくると権威や権力を持つものでも絶対的なものを持っていないことを知るようになった。だからといって自分が絶対かというと、そうではなく人は皆同じようなものであると思うだけである。そのせいか周囲の人に反抗的であると見られることが多い。自分としては反抗しているつもりではなく、おかしいと思うことの説明を求めているつもりなのだが、これがいけないのかもしれない。  ということで、この話は「反力」について書きたい。これといった結論をもっているわけではなく、ただ疑問の羅列になるかもしれない。  本設定でスペース力を引力と斥力とした。この文章では、これが代表的な反力となる。スペース力は距離を持ち、ノード間の距離に関わらずにスペース力=1とした。時間を回数という整数にしたように距離もスペース力も整数としたいのだが、この話だけということで整数より小さい値を用いたい。思考実験のためだけに用いたい。尚、全てを整数値にしたいのは整数より小さい値が存在すると初期設定より初期のものが存在するような気がするからである。  現実世界に戻ると、圧力というものが存在する。気圧もそうだし、数え上げれば切がない。圧力とは何かをわたしが説明することは困難である。なぜなら詳しく知らないからであるが、イメージすることはできる。ある状態から圧縮しようと力を加えると反発が生まれる。例を示す必要性もないほど自然なことで、これは反力ではないだろうかと考えた。どういう法則でこうなるのかと頭の中を探ってみると、確か物理の3大法則の1つにあったような気がする。最初の2つの法則は何となく納得した記憶があるが、この3つ目の作用・反作用の法則がよく納得できなかったようである。それが今突然目の前に現れたのだからびっくりである。  さて、また空想に戻るとスペース力=1、距離=1の状態から距離=1/2にしようとしたら反力は生まれるのであろうか。これは設定の仕方次第であるが、その仕方が問題である。ところで、設定、設定と連呼してきたが、これはこの宇宙の法則を設定しようとする試みである。少なくともそのはずくらいではある。例えば、斥力の場合2つのノードが離れようとするのを近づけるのだから反力が必要であることは認めたい。しかし、引力は元々2つのノードを近づける力であるから距離が縮まっても不思議ではないはずである。すると斥力には反力があって引力には反力がないことになる。それでもいいのかもしれないが、どうも納得いかない。どこに問題があるのだろうか。頭の中は空転するばかりである。  発想の転換をしたい。現実社会で人に危害を加えると仕返しを受けることが多い。優しくすれば、優しくされることは少ない。これは、宇宙の起源がアンバランスから創造された証拠なのだろうか。ついでに話は逸れていく。優しい人というものは存在しないと考える。優しくされた人が「あの人は優しい」と感じるだけで、本質が優しい人というものは存在しないのではないだろうか。話を無理やり纏めると、感じたものだけが存在する。相互に感じあうから存在しあう。つまり反力とは存在の確認に不可欠のものではないだろうか。