freecontentのブログ

日々の出来事から思い、動物、科学にわたって様々な自由な内容です。

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第8話 座標値のない座標系

 今日は仕事をしながらこんなことばかり考えていた。  座標値を持たない座標系とはどんな座標系なのだろうか?どんなに考え、思いを巡らしてもイメージは浮かんでこなかった。ただこういう座標系にすると考えが纏まりやすいからと思い、どのノードも全てのノードと異なる座標を持つか同一の座標を持っていて、ノード間には距離が存在すると設定した。異なる座標を持つノード同士は、距離の存在を考慮すれば済むが、同一座標を持つノード同士は、異符号のとき対消滅してこの世界から存在を消すとした。そう設定したのだが、そうすると距離も存在を消すことになる。さらにノード間にはスペース力があるとしたからこれも無くなる。どんどん、やっかいなことになってきたのだが、もっとやっかいなことがある。同符号のノードが、同一座標に存在するとき、どのような振る舞いをすればよいのだろうか。全くの想定外で、考えてみれば当然のことなのに気がつかなかった。よって同符号のときの振る舞いは考慮中としたい。  スペース力も引力と斥力が存在する。この異なるスペース力が重なり合ったときの振る舞いも頭を悩ませた。スペース力が消滅したら距離もなくなるのかとか、ノードの繋がりが無くなるから設定そのものが瓦解するのではないかと、一時この文章を書くことを止めようかとさえ思った。止めても困る人はいないだろうからさほど問題ではないが、どうしても先日の閃きを大事にしたいと思ってしまった。悩んでいるときに昼食となり、おいしく弁当を平らげた後、横になって思い立った。スペース力が重なるということは、ノードが同一座標となるのだ。従って、ノードの課題さえクリアすればスペース力は考えなくてよいことになる。  すると今度は時間の問題を考えるようになった。現在の日常で感じている時間と宇宙が創造されたときの時間は性質そのものが違うと思っている。現在絶対時間の存在は否定されているようだが、本文章の設定では宇宙の創造時には物質は存在しない。従って、運動も存在しなく時間は発生しない。本文章では時間を回数としたい。親世界がノードを子世界に分裂させる時を1回と数える。1回に複数のノードが発生することもあるが、0個の時もあるかもしれない。なにやらややこしくなってきたが、子世界の状態だけを考えれば、状況は好転するようだ。現在、子世界に存在するノードだけを1回の時間だけ振る舞わせればよい。振舞った結果が、次の回の直前である。直前というと回数と回数の間に少数部があるように感じられるが、実際には無く、今の回数のまま待機していることになる。回数は整数である。その回に追加された0個か複数のノードを考慮しなければならないのだが、これは誤差の内として考慮を保留したい。考察を単純化したいためであるので容赦願いたい。  そうこうしているうちに2つのことを考えるようになった。1つは、運動(移動)しているのは粒子(ノード)であるが、運動させているのはエネルギー(スペース)である。はたして、どちらが宇宙の主体であるのだろうか。現在の科学は等価原理によって物質とエネルギーは同一のものであると考えることもあるようだが、どうしてもイメージが浮かんでこない。つまり、しっくりこないのだ。これはわたしの感覚上の問題で世間一般の科学とは無縁のものであるから、読者の方は気にする必要ないと思われる。わたしは好きで考えて、感じているのだからそれに付き合う必要は全くないものと考える。もう1つは、わたしが微分を嫌いな理由がわかったような気がしたことだ。微分は瞬間の変化量を扱うようだが、瞬間とはどのくらいなのだろうか。この世界を微視化していくと、整数で数えられるものに分解できるのだろうか。わたしは出来ると考えている。しかし、そこには必然の整数宇宙の理があって、整数要素ありきではないと考える。上手く言えないのだが、上手く言えた時は万事が解決したときかもしれないから仕方が無い。  わたしの日常の持論に「わからないことをいつまでも考え続けることは無駄であり、わかることを考えないのは愚かである」というのがあるが、わたしの今の頭の中はどちらなのであろうか。こうして益にもならないことを書き続けるのは無駄で愚かかもしれないが、楽しいのだから仕方が無い。しかし、さっぱり先には進まない。

第7話 ツリー構造から

 日々の出来事を綴ると日記となる。日々の思いだけを綴ったら何とよぶのであろうか。この文章は本来、宇宙の創造について綴るはずであったが、そうそう閃きが浮かぶものではない。閃きのコツは頭の中を空っぽにすることだと思っている。考え続け、悩み続けても閃きはやってこない。従って、雑文と化したこの文章にも意味はあるのである。わたしも日常をおくる中でストレスや鬱憤がたまっていく。それをこの文章の中へ直接書くのは躊躇われるので、何となく文章を綴っている。すると不思議とストレスは消え、鬱憤も治まっていく。  文章を書きたくないときは、食事もしたくないほどいらついているときである。以前、精神科でうつ病ではないかと診断されて向精神薬を処方されたことがある。確かに気分はよくなり快適だったが、2,3日するとテンションが上がりすぎてしまった。毎日がお祭りのようで楽しかったのだが、ハイテンションであることを自分でも気がついてしまった。やることなすこと、やり過ぎなのである。その由で1週間後には同じ医師の下へ向かうこととなった。処方の取り消しを求めたのである。確かに現在やる気は薄弱であるが、うつ病ではないようである。  おそらく、このようなことであると勝手に思っている。わたしは、4回ほど死に掛けたことがある。心臓、すい臓、事故ともう1つである。まちまちの死に掛けであるが、その原因を探ってみると、やる気を出してしまうと歯止めが利かないようなのである。若いころなど、1週間寝ずにコンピュータの前に座っていることはざらであった。1つの問題が現れると解決しないと寝ていられなかったのだ。そんなこんなで倒れてしまったようで現在は身体も心もぼろぼろでやる気を出すなと自分に誰かが言い聞かせているのだと思っている。  さて、本題にどこから手をつけようかと考えていた。いくつかの発想は浮かんだが、これといった閃きはなかった。閃きはこの文章を書くきっかけとなった次のことだけだったようである。  「要素を主体に考えると複雑さが消え、要素の繋がりを主体に考えると複雑さは増す」  今日は比較的気分がいいので思い切って、ここから始めようと決心した。情報分野でいうところのツリー構造である。通常、ツリー構造の親ノードは1つである。ところが、わたしは親ノードを複数にした。  第1階層:繋がり全てが親ノードとなる。グラフ理論では繋がりをエッジとよび、この文章の第1話ではスペースと名づけた。(尚ここで用いるのは完全グラフである)  第2階層:集合A・B・Cができる。集合AとBは交わり、集合Cは完全に独立する。つまり、集合AとBからは集合Cへの繋がりは存在しない。いわゆる完全独立系である。集合A・B・Cの要素はノードとなり、第1階層のエッジとは異なる。  第3階層:集合AとBのそれぞれで、再びスペースの枝が生成される。  第4階層:第2階層と同じである。 集合Cはツリー構造と完全独立系となるため、ツリー構造から除外されていく。  このように奇数階層にはスペースが、偶数階層にはノードの集合が連なっていく。なんのことやらさっぱり理解できないと思うが、N点の完全グラフ(Nはノード数)に1つの条件を付加すると上のようなツリー構造が出来上がる。これと宇宙の創造を結びつけるのは容易なことではないが、決心してしまったのだから仕方がない。  失敗したならば、やり直せばいいだけである。

第6話 独立系

 前の話の追記になるが、観測とは反応の検出である。何かと何かを干渉させてその反応の違いを検出することが観測であると思っている。従って、反応しないものは観測できないことになる。  ということで今回は独立系とはなにかを定義したい。複数の完全独立系は、互いに観測できない系のこととする。互いに観測できないのだから無と同じこととなる。互いに反応できないのだからぶつかる心配もない。従ってこの世界での独立系は次の場合だけである。 ① 条件を付加したとき(例えば、反応の起こらない条件など) ② 実用上問題の起こらないほど排除してよい反応が存在する時 ③ 観測技術が劣悪ないしは実在は確認されているが、観測技術が存在しない場合 ① の時、一目平坦であるようなN!(階乗)のような要素の集合体でも一定の条件を付加すれば、ツリー(階層)構造を作れることがある。あるというよりは、あるつもり、あるはずと言い直したほうが正確である。実は以前に取り組んだ課題がこれであった。結果、解法を導き出したのはよいが、未だ箱の中である。解法そのものだけでは役に立たないこともわかっているのだが、今回の取り組みの過程でいつか絡み合ってくるものと信じている。 ② の時、実用技術としては間違いなく問題は起こらないと思うが、理論としてはどうなのであろうか。確かにランダウの漸近記法などにみられるように大量の計算量を扱う時には、便利な記法であり考え方であると思う。しかしながら、本文章の中では扱わないこととしたい。いかに微量な数値の反応でも繋がりとして考えたい。先走ってしまったが、反応は観測者と被観測者の繋がりであると考えている。 ③ の時、顕著であるのは心と物質である。心は明らかに存在すると思われ、物質に反応するが、その反応の観測技術は存在しない。故に心は、物質と独立した系であると考えざるを得ない。また、科学の進歩により観測技術や精度が向上し、今まで無関係だと思われていたものが、発見されて科学の発展に寄与することもある。  ところで、わたしは確率が嫌いである。これは個人の好みであるから仕方がない。統計も嫌いである。微分も積分も嫌いである。図形とか論理は好きなようである。そのせいかもしれないが、機械論的考え方を好むようである。わたしの思う機械論とは、物質の全ての振る舞いは宇宙誕生と共に決定されているとするものである。心だけが物質の振る舞いを変化させることができると思っている。根拠など何もないが、信じるものがなければ生きていくことは難しい。誰かを説得したり、納得させたりしようとは思わないが、自分だけが信じる世界があってもいいではないかと思っている。唯一納得させなければならないのは自分自身である。ただそのためだけに論理的であれと思っている。  この世界の社会は思いと理屈で構成されていると考えていて、どちらが先に来るかというと思いである。こうしたいという思いがあって、そこに理屈が付いてくる。いわゆる理屈とは思いを通すための手段である。何故、社会に法律や慣習などが生まれたかと考えると、思いだけが寄り集まった集団は社会として成立しないからではないかと考える。個人を尊重するためとか、自然を敬うためとか様々な議論があるであろうが、宇宙や自然は、それを人に求めたりしない。人が自由に作ったものが法律や慣習である。従って、力の強い者が法律や慣習を作るのは当然のことなのである。故に理屈が通っているからといって、法律や慣習が平等であるとは限らない。個々の思いを尊重すると、社会が成り立たない。逆もそうである。はたしてどちらを優先すべきなのであろうか。わたしの現在の結論は、個が個に配慮し、折り合いをつける社会が望ましいと考えている。しかし、そういう社会は永遠にやってこないとも思っている。