freecontentのブログ

日々の出来事から思い、動物、科学にわたって様々な自由な内容です。

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第29話 猫たちの朝

 今日もチロは温かった。今朝、チロは静かに眠っていた。猫たちの朝は早い。わたしが目覚めるのは朝5時ごろだが、猫たちはその前には起きているようだ。その中でチロだけは眠っていた。もしやと思ってチロのお腹にわたしの掌を触れてみたが、温かさが伝わってきた。
  わたしの日課の最初は猫のご飯を用意することである。用意していると猫たちは、めいめいの場所で待ち構えている。わたしが、ご飯をエサ箱に移すと猫たちは我先にと群がってくるのだが、その子達は元気な猫たちだ。健康に障害を持つ猫たちは、遅れてやってくる。その中でもチロはエサ箱に向かってこない今一番気がかりな子猫である。
 昨年と比べて、病を持つ子猫が多い。そもそも始祖であるナツの持病は眼病で、鼻炎も持っているらしい。どちらもお医者さんに診てもらったことはないので病気の程度はわからないが、ナツもよく片目を膿で閉じていた。遺伝ではなくナツの持つ病原菌が子猫たちにうつるのだろうが、ナツの家系の子供たちは、必ずといっていほど一度は眼病を患う。去年までのほとんどの猫は2週間もすれば、治っていたのだが、今年の子猫たちの治りは遅いようだ。
 チロ以外にも眼病を患っている子猫は何匹かいて、眼球が鈍いピンク色になっている子猫もいる。この状態が、膿で眼が閉じる前兆なのか治りかけているのかわからないが、いずれにしても健常な状態ではない。
 弱弱しいながらもチロは昨日の夕飯を食べていた。目は相変わらずだが、嗅覚は戻ったのかと一安心していたが、今朝の様子ではあまり芳しくないようだ。猫はエサを選ぶとき、視覚よりも嗅覚で選択するようだ。その意味では、嗅覚さえ戻れば、食事はとれると思っていた。
 “ミッケ”と名付けた子猫が少しも大きくならない。体長は20cmくらいで見つけたときから変わらず、骨格も整わないのだ。猫は後脚が重要なようで腰の骨格が整ってくると走り回りだす。そうなるとうるさいほど賑やかなのだが、ミッケはこの走り回ることができないでいる。だからなのか、他の子猫たちと遊ぶことができない。子猫たちを眺めていると、一人でいることが多いようである。他の兄弟猫3匹は、骨格も整い、身体も1回り以上大きく育っている。人間でいえば、未熟児のようなものだろうか。
 わたしは、手当たりしだいに子猫を捕まえて膝の上や胸の上に置く。そうすると、子猫たちによって反応は様々であり、すぐ逃げ出そうとするものや、暫く考えてから逃げ出そうとするものもいる。いずれにしても健康な子猫は束縛を逃れて、わたしから逃げ出そうとするが、わたしはそれを阻止する。子猫によって力ずくで逃げ出そうとするものや、頭を使って逃げ出そうとするものがいる。これは、わたしと子猫との遊びなのだが、ミッケはこれができない。踏ん張ることができないからわたしに抵抗できないのだ。

第28話 盲目の子猫

 チロと名付けた子猫が天を見上げて何かを探しているようだった。目を患っていることは知っていたが、昨日まではご飯を美味しそうに食べて、元気に走り回っていた。もちろん、母猫のお乳もたらふく飲んでいるようで、このまま元気に育ってくれるものと思っていた。
 様子がおかしいと気づいたのは、朝のご飯をあげたときだった。いつもなら元気に走り寄ってくるはずのチロが部屋の片隅で身動きせずに座っていたのだ。幸いわたしは今日休日で、朝からチロの様子を窺がっていることができた。チロは典型的な猫の座りで腰をおろして、前脚で上体を支えていたが、見ている顔の方向がどこかおかしく、宙の1点を見つめて何かを探しているようだった。わたしはおかしいと思いながら、いつものように膝の上にチロをのせた。いつもなら少しじっとしていながらもすぐにわたしに抵抗して、手の中を掻い潜って逃げていくのだが、チロはそうしなかった。チロはできなかったのだ。両の瞼は膿によって塞がれて、何も見えなかったのだ。
 膝の上にチロをのせたときに気づいたのだが、チロは骨と皮だけになっていた。手足には筋肉らしきものは見当たらず、移動することが困難だったようである。昨日今日のことではないのに何故気づかなかったのかと自分を呪いながら、ご飯を口元に近づけても、水をふくんだ布を押し当ててもまるで反応はなかった。そっと、膝の上からおろして子猫たちの仲間に加えてみた。他の子猫たちは元気過ぎるほどに跳ね回っているのに、チロだけは仲間に加われなかった。チロを気遣っているのか他の子猫たちがチロにじゃれあってくるが、チロはやはり宙に何かを探しているように身動きしなかった。
 やがて、チロは動き出した。やっとの思いで歩いているらしく、のろのろと向かっていたのはいつもの遊び場の空の段ボール箱の中であった。中は暗くて狭いのだろうが、猫たちはこういう場所を好んで遊び場としている。しかし、チロがそこに向かったのは別な理由からではないかと想像した。猫は自分の死に様を他者に見せない習性があるらしく、チロは幼いながらも死に場所を選んだのだと思ったのだ。
 ところが、外が暗くなって母猫たちが戻ってくると、その中の1匹がチロを咥えて箱の中から引っ張り出したのだ。まるで、死ぬのは未だ早いと言っているようでお乳をチロに与えようとしていた。このとき気が付いたのだ。チロは嗅覚も失っているらしく、吸うべき乳首を探せないようなのだ。だからご飯も食べられないのだとわたしは一人合点したが、チロは自分の死期を悟り、お乳を拒絶しているのかもしれなかった。これをみかねたのか他の母猫たちも寄ってきて、目といわず全身を舐め始めた。母親たちはこれが唯一の治療法であると確信しているようで、チロは嬉しそうな顔をして今母猫の懐で寝入っている。子猫たちも母猫たちを真似ているのかチロに寄ってきては舐めて去っていく。明日もチロの姿があることを祈って、わたしも寝ることにしよう。

第27話 凹図形から+と-へ

 階層数=logN!(底は約Nの2乗)の式は、直感的に間違っていることをわたしは知っている。直感的であるからどこが間違っているのかはわからない。尚、階層数とはN!数を何回分枝させれば、末端のTNに到達できるかを現している。間違いは、このブログが終わりに近づけばわかるのかもしれないし、わからないかもしれないが、本質とは離れたところにあるのでよしとしておこう。
 さて、切り出した集合PRを眺めてみると、そこには無数の点が散らばっているだけである。完全グラフを作成してもさほど興味をひかない。ところが、この点集合には重要な性質が存在する。それは線分が交差しないように一筆書きをしたとき(単純閉路とよぶらしい)凹図形になるか凸図形になるか点の配置で異なってくるのである。凸図形が単純性を持つことは、以前述べたと思う。凹図形は入れ子のように次数を持っている。わたしはこの性質を詳しく調べようと数年前に取り組んだが、あまりにも面倒で意味がなさそうだったので取り組みを放り投げている次第である。従って、凹図形の次数が大きくなると複雑性を増すということは、ほぼ直感的な主張であり、あまり信憑性を持っていない。
 直感性のいいわけの例を1つ示すと、4点(4辺)の凸図形は対角線を必ず2つ持つ(つまり交点を持つ)。4点(4辺)の凹図形は、対角線を持たない。つまりどの線分も交差しないことになる。三角形の真ん中に1点を配置した図形が4点(4辺)の凹図形となる。このとき完全グラフを作成すると、大きな三角形の中に小さな三角形が3つできる。その小さな三角形の1つを任意に選択して、点を加える。順次この作業を繰り返していくと、入れ子の次数の大きい凹図形ができあがる。と当初考えていたが、実は他の点からの線分が交わってきて複雑になっていくことがわかった。入れ子の次数が高いほど完全グラフにおいて交点数が少なくなっていくことは確かめたつもりだが、面倒になってきたので途中で止めたのであった。
 何故、交点数が多いと単純なのかというと、交差する線分は消滅するという法則を勝手に作ったからである。勝手というより、巡回セールスマン問題を解く過程で得た1つの条件であり、単純閉路の条件でもある。条件を法則にしてしまったから勝手と言っただけで、少しは言い分というものも持っているのである。
 ここで、ようやく+と-を扱いたい。完全グラフの点(ノード)は全て同種であり、特別な点を持っていない。Cは距離(重み)とか向きとかいう属性を持っているが、次話くらいから考察していきたいのはノードとCに+と-の属性を持たせたケースの図形の振る舞いである。振る舞いの法則をいくつか考えて何かを導きだしたいのだが、上手くいく保証はどこにもない。しかし、単純なものを組み合わせ(配置も含む)を通して眺めてみると様々な面白いことがみつかるのだから、もっと面白いものが見つかっても不思議ではないのである。